
「流行」という、本来の意味でいえば
自分で着るもの、身につけるものとしては、
ファッションには、まったく縁がない。
かなりの間、ずっと同じスタイルだからだ。
ジャケットとパンツ、上下ともに黒。以上。
拘りがあるとすれば、なるべく真っ黒で、ということ。
普通、スーツは、黒と呼ばれるものは、真っ黒ではない。
紺色に近い黒が多い。少し青っぽいというか。
礼服とかではない限り、真っ黒のスーツはあまりないから
いい感じの黒があったら、基本的に購入するようにしている。
ブランドに関しては、まったく拘りがない。
いい感じであれば、それでOK。
好きなブランドは、Hugo Bossと、GIOGIO ARMANI。
シルエットと着心地。あと強いんだよね。
GIOGIO ARMANIのコートなんて、もう15年くらい着ている。
スーツでは、CALVIN KLEINのウールスーツが
まったくノーマークだったんだけど、着心地がよいのと
着崩れしないことに驚いて、同じのをもう1着買った。
今日、着ているのもそれ。
靴に関しては、変化がある。
どのくらい前からか忘れちゃったけど
普段、履いている靴が、革靴から、NEW BALANCEになった。
スポーツシューズという意味ではなく、NEW BALANCE。
革靴以外では、持っているのは、ぜんぶ、NEW BALANCE。
いま気に入っているのは、576のUKレザー。
NEW BALANCEは、足を入れる、かかとが当たる部分が
布製のものが多いが、それだと、長く履くと、ボロくなってしまうので
MADE IN ENGLANDの、576レザーが、すごく好きだ。
そんな感じだから、流行とは、まったく関係ない。
10年前も15年前も、いまと同じような格好をしている。
20年前くらいは微妙だけど、18年前は同じ格好をしているはずだ。
たぶん、20年後も同じ格好をしているだろう。
洋服って、他人のために着るという目的と
自分のために着るという目的があると思うが、僕は明らかに後者。
なんだか、ぴったりくるんだよね。
スーツか、ジャケット+パンツというスタイルで
黒の上下で、というのは、変わらないだろうなあ。
ビーチに行っても、砂漠に行っても、いつも同じ。
それが自分のスタイル。ファッションではない。
自分が自分らしいために。
自分が自分で気持ちいいために。
制服みたいなものかしら。
次回テーマは、僕から。
「自由について」。

時間だけは、どうにもならない。
いや、個人的には、ほかにも
どうにもならないものばかりだけど
どんな人でも、時間だけは、どうにもならない。
といっても、時間は相対的なものであり、絶対的なものではないから
近い将来か、遠い将来、ある程度、どうにかなるのかもしれないが
それでも、できることは僅かなことだろうし、少なくとも現在においては
かなり、どうにもならないものであることは、間違いない。
例えば、1時間でも、10分でも、時間があったとして
それは、移動中であるとか、待ち時間であるとか
そういう、持て余しちゃった的な時間を、どう過ごすかということに
その人、その人の個性というか、価値観がでると思う。
僕が心がけているのは、「時間を潰してはならない」、ということだ。
勝手にどんどんと、時間が過ぎ去っていく以上
寿命やら事故やら病気やらで、誰もが、いつかは死んでしまう以上
時間というのは、ものすごく価値があるものだ。
個人にとって、その個人には、終わりがあるのだから
時間というものは、与えられたものだと言ってもよい。
誰もが、無意識に、あまり考えないようにしていることだが
いま生きている人の全員が、「残り時間」というものを持っている。
どんなに偉い人でも、お金持ちでも、慕われている人でも、なんでも
150年前に生きていた人で、今日、現在、生きている人はいない。
人類なんて、見事に100年くらいの単位で、一掃されているのだ。
とはいえ、焦る必要はない。焦ってはいけない。
時間に追われて、時間に支配されているのでは、意味がない。
いくら時間が価値があるものとはいえ、個人の価値に勝るものではない。
時間は使うべきで、時間に仕えるようになってはいけない。
「自分で使う」、という意識が大切なのだ。
有意義に使う。余裕を持って使う。
決して、「潰す」なんて、やってはいけないことだ。
例えば、新幹線に乗って、1時間とか、時間があったとする。
僕の場合、そういうことが、かなり多い。
人によっては、バスに乗っている20分かもしれないし
待ち合わせの15分かもしれない。
僕は、その時間を「与えられた時間」であると意識している。
「ふとできた時間」というのは、「与えられた時間」なのだ。
いつも忙しく、仕事やら、約束やら、なにかに追われて
いつの間にか、過ぎ去っていくことの多い、時間。
流されていること、追われていることに、気付くために
「ふとできた時間」というのは、「与えられた」ものだと思っている。
立ち止まるための余裕。
有意義に使うために、与えられた、約束された時間。
新幹線の窓から外を見る。
流れていく景色、今日、そこにしかない夕暮れ。
街や、村や、田んぼや、山々が、どんどんと流れていく。
まるで、時間、そのもののようだ。
僕は、その時間を、ゆっくりと、自分のものにするために
新幹線のワゴンサービスで、コーヒーをオーダーして
黒い液体の上に浮かんだ、湯気を眺め、少しずつ啜りながら
また、窓の外に目をやる。
ふっと、生まれる、充実した時間。
まるで、止まってしまったかのように。
まるで、自分が時間を支配しているかのように。
そんなとき、いつも、思うことがある。
なんで、ワゴンサービスのコーヒーは、300円もするんだろう?

時間とは相対的なものであると、アインシュタインが言った。時間が相対的と言われても「はて?」 という感じだが、
彼の
「眠くてしかたない難しい数学の1時間の授業は長く感じる。恋人と楽しくお茶を飲みながら語り合う1時間は短く感じる。時間が相対的とは、そういうことです」
という説明がイカしていた。
「もう年末だ!!」
ということを皆さん言いますが、新たな経験や発見や出会いに満ちた高密度の10代や20代の1年と、微妙な変化はあるとはいえ、基本的には家と会社の往復をして、家族と仕事関係の人+長い付き合いになる友人たちに囲まれた40代の密度カスカスの1年では、エネルギー量と質量に差がある。
老いれば老いるほど、時の過ぎゆくスピードが加速する。それは怖いことでもあり、楽しいことでもあるのだが、この1年のボクの時間は20代の頃に匹敵するくらいの密度があった。
40代のくせに20代と同じ密度感の1年だったと言うとかなり意気がってる風だが、あながち嘘でもないんである。
だって時間は相対的なんだから。
次回テーマは、ボクから。
「 ファッション」。

我が家には、子どもが2人いる。
下の子は、まだ赤ちゃんだ。
2人の子ども。
僕は、出産には、立ち会おうと決めているので
カミさんの出産に、2度立ち会ったことになる。
2度目は、長男も立ち会った。
2度、立ち会いをしたから
僕は、2度、同じ衝撃を受けた。
特に1度目は
予期していたなかったこともあって、衝撃が大きかった。
しかし、1度目でわかっていたはずなのに、2度目も衝撃を受けた。
なにが衝撃だったのか?
それは、カミさんと、赤ちゃんが
「繋がっていた」ということだった。
分娩台の上で
カミさんと、赤ちゃんが繋がっている。
その横で、僕は、ただ、それをじっと見ている。
あちらには、リアルな繋がりがあるが
僕には、それがない、というように思えた。
DNA?
僕は、ただ、参考資料のように
DNAを、カミさんに預けていただけなのであった。
産んだのは、カミさんだ。
しかも、産んですぐは、その新しい生命と繋がっていた。
僕の目の前で。
母と子、というのが、本当の親子なんだ、と感じた。
僕は、参考資料とか、企画提案書、みたいなものにすぎないんだ
と、思った。
カミさんとは
喧嘩も多いが、仲は良く
大事な部分の価値観においては
かなり近いものを持っていると感じていたので
なんとなく、「似たような存在」であると思っていた。
しかし、違った。
男と女は、こんな大事な場面においては
まったく違うものであった。
僕は、子どもを産むことができない。
子どもと、身体が繋がっていたこともない。
女ってのは、すげーなぁと、思う。
自分にできないこと、持っているんだもん。
次回テーマは、僕から。
「時間」。

同じ人間でありながら、どうしてこうも男と女がすれ違うのか不思議でならない。好きで一緒に暮らしてる女性でさえも、クーラーの適温から、好きな俳優から、好きな食べ物まで、何から何まで嗜好と思考と志向と指向が違って試行錯誤が続く。
例えば歯を磨いてるときに水を出しっ放しにするのはエネルギーの無駄だ。しかし水が流れる音を聞きながらでないと歯を磨いている爽快感に欠ける。だからボクは水を出しっ放しで歯を磨いて生きてきたが、彼女はどうやらそれが気に入らないらしい。
しかしである。それを言うなら、まるで同じに見えるブーツやパンプスを幾つも買い揃えるのは無駄じゃないのか? ちょっとだけ細い太いの差があるだけのジーンズは?? 朝シャンは? ??
…と、そんなことを言いだしてもキリがない。どこにも正解はないし、話し合えば分かり合えるというものでもない。たかが歯磨きくらいで彼女の気分を悪くすることに意味もない。だからボクは歯磨きの爽快感を犠牲にすることにした。
女性は強い。タフだ。平均的には男よりも長生きだ。それにあまり風邪をひかない。なのにか弱いフリをする。そして男は、女々しく、病弱で短命だ。実のところ、単に力が強いだけなんである。精神力だって、痛みに対する耐性だって女性の方が上にいる。
強いからこそ、可憐で、か弱いモノに憧れるんだろう。
弱いからこそ、力強く、猛々しいモノに憧れるんだろう。
そのあたりのことを、1度しっかり整理する必要がある。
英語や世界史や地理や数学を勉強するのも大事だけど、義務教育で「男と女」という科目を必須にすべきだと思う。肉体的な性差ではなくて、もっとメンタルな男と女について。
「どうしてこの場面で、それを言うのか?」
「どこに落ち度があって不機嫌になってるのか?」
などは、連立方程式より難問に違いない。
さすがに場数を踏んできたから成績優秀になってる気がするが、それも気のせいかも知れない。
「女性ときれいに別れるには、相手から憎まれるしかないよ」
という話しを聞いた事があるが、未だに正解か不正解か分からずにいる。
「女性が苛々してるときは、あめ玉をあげるといいよ」
という話しを聞いたこともあるが、正解なこともあったし、不正解なこともあった。
好きな割りには苦手科目っぽい。

ビデオゲームの登場は衝撃的だった。
まだ、小学生の頃。
最初は、不思議なモノという印象でしかなかった。
ソフトウェアという概念がなく
あのスタンドかテーブルという、ハコの印象が強かった。
プレイしてみると、もう大ハマり。
スペース・インベーダーから、もう中毒。
やがてすぐに、ゲームセンターへの出入りが禁止となってしまう。
当時は、暗くて、コワくて、魅力的な場所だったからね。
いまでは考えられないけれど。
だけど僕は、プレイがしたいために、中毒から抜けきれず
隣町のボーリング場や、ヤクザ経営のパチンコ屋の2Fまで行って
プレイを続けた。
当時、安野くんという、仲のよい友達がいて
2人ともゲームがしたいが、お小遣いに限界があるということで
考えた方法が、前述のヤクザのパチンコ屋の2F作戦。
そこに行くと、独りの女性がわりといる。
20代のお姉さんたち。
なぜかというと、男のほうは、下でパチンコをやっているわけ。
で、女のほうは、2Fにいる。待っているんだろうね。
僕らは、その女性がプレイしている
テーブル型筐体の、反対側に座って
「上手だなあ」とか、勝手に反応する。
すると、優しいお姉さんたちは
たいてい、プレイをおごってくれる。
「一緒にやろうよ」ということになる。
そこから、1時間くらいは、ずっとゲームができて
その女性が帰ったら、また別の女性を捜す。
ということの繰り返し。
いま思うと、なんて小学生だと思う。
その頃、小学5年生くらいだから、うちの息子でいったら再来年。
あと2年で、そんな小学生にはならないだろうなあ。
とにかく、そればっかりじゃないけど
ゲームプレイの半数くらいは、お姉さん方に奢ってもらっていた。
効率よく、一緒にプレイさせていただくために
経験を積んだこともあって、どういう雰囲気とルックスの女性が
相手にしてくれそうな、いいお姉さんか?
というのが、見抜けるようになった。
そのパチンコ屋2Fのゲームセンターでは
ゲームする代わりに、ドリンクが無料だった。
ヤクザなパチンコ屋だったこともあって
子どもは高校生くらいまで含めて、僕ら以外は見たことがなかった。
そんな、お金もほとんど持ってこないで
年上の女性に、ゲームをたかってばかりいる小学生なんて
怒られたり、追い出されたりしてもいいと思うんだけど
なぜか、僕らは許されていた。
僕らは、お金をあまり出してはいないけど
結果的に、売り上げは増えているわけだから
それで、許してくれているのだろうと、勝手に思っていた。
そんなことを続けて、半年くらい経ったとき
僕は、無料ドリンクの機械が置いてある、コーナーの奥で
そこの店長が、誰かを
鎖で、殴っているのを見てしまった。
細い鎖ではなく、車を引っ張るような太い鎖。
それを腕に巻き付けて、余って伸びたほうで
鞭のように、殴っていた。
鎖のジャラっとした音と、苦しそうな声が交互する。
僕は、隠れるように、じっと見続けていた。
恐怖と好奇心で、動けなかった。
やがて、思い切りキックして、相手は倒れた。
その日から、そのゲームセンターには行っていない。
いまでも、「パックマン」や「ルート16」、「ムーンクレスタ」
などのゲームと、そのパチンコ屋の2Fの風景を同時に思い出す。
いまで言うクラブのような、かなり暗い照明。
タバコの煙。安っぽい音楽。
年上の女性達の笑顔。
無料のドリンクの甘いシロップの味。
汚れた床。
鎖の音、そして暴力。
そんな、キケンで甘い、魅力的な場所に言ってみたい。
ドキドキしてみたい。
あの場所で、僕は大きく成長したのだと思う。

大好きだけど大嫌い。つまらなければ腹が立つし、面白くても(負けた気がして)腹が立つ。
遊び狂っていたのは
スペース・インベーダー
ギャラクシアン
ゼビウス
ドラゴンクエスト3
スーパーマリオブラザース
ゼルダの伝説
など。
それ以降のタイトルは
「こんなに豪華なの羨ましいなー」
「このシェーディングってどうやってるんだろ?」
「こんなにメモリに入るのかな?」
「どうしてこんなにキャラ表示してるのに処理落ちしないんだ?」
とか、作り手側の視点が邪魔して純粋に楽しめてない。
いつか必ず
「全てはこれを作るための布石だったんだ」
と思える代表作を作りたい。
次回テーマは、ボクから。
「男と女」。

若かった頃は、「日本なんて」とか
よく言っていたし、実際、そう思っていた。
でも、それは、子どもと、親の関係に似ていて
ちょっとした自立心というか、反抗というか。
いずれにせよ、否定によるアイデンティティの確立の類で
あまり気持ちよくも、生産的でも、健康的でもなかったと思う。
前に新聞のコラムで書いたことがあったが
大切なのは、「自分も日本の一部である」という意識。
そういうものの見方だと思う。
そうでなければ、放棄なんだよね。
放棄しちゃったくせに、後で文句言うのはよろしくない。
「日本は」とか「日本人は」と言ってる時点で、ちょっとずれてるわけだ。
その人が日本人である限り。
その人も、日本の一部であり、日本人の一部であるわけだから。
河島さんという人がいたとして
河島さんには奥さんも、子どももいたとして
「河島家はさぁ」と、客観的な態度を取るのはちょっとおかしい。
少なくとも、河島家に対して、文句言うだけというのは、ずれていて。
その人も河島家の一部なんだから、どうにかすればよろしい。
思考する上で、客観的な視点に立つのはよいとしても
基本的には主観的な立場で、考えるべきだ。
そのくらい愛するべきだ。
だから、もうずっと、立場としては「日本LOVE」。
自分は、日本の一部であるという意識の上で。
「日本をもっとよくしていきたい」と思う。
そして、みんながそう思い始めて
いろんなことが、一斉にがらーんと変わる時期が
そろそろ近づいてきていると思う。
自分のことや政党のことばかり考えている政治家はいらない。
なにより、日本を売って、お金や立場に変えているようなやつらは許せない。
どこかで変えよう。
一気に変えよう。
この国は、もっともっと豊かで平和で楽しくあるべきだ。
僕らは、この日本という国の一部なんだから。
次回テーマは、僕から。
「ビデオゲーム」。

日本と言っても100年前の日本と今の日本は違う。100年後の日本も今とは違っているはずだ。
ボクが40年生きてきた短い間でも変わった。「水と安全はただ」と言われていたこの国で、水にお金を払う様になったし、安全にもお金を払う様になった。情報化社会になったので情報量が増大してるだけかも知れないが、凶悪な事件も増えている様に感じる。
田舎ではまだあるのかも知れないけれど、東京ではバスの中で授乳してるお母さんを見なくなった。そして女性専用の電車が走る様になった。
犬の放し飼いもなくなった。野良犬もいなくなった。
ストリーキングを見なくなった代わりに、露出系の変態が増えた。
気温は上昇し、ヒートアイランド現象を伴って都心の夏は狂気の沙汰だ。数十年もすれば冬がなくなり、日本の四季は三季になるという説もある。
憂国を気取って「昔は良かった」などと嘆くつもりはない。いい悪いを越えたところで、諸行無常なんである。
そうは言っても日本が好きだ。

子どもの頃は、死んだら生まれ変わると思っていた。
十代の後半くらいからは、死んだら無になると信じていた。
二十代の後半くらいから、ちょっとわからなくなっている。
宇宙とか物理とか脳とか、いろいろ勉強していくうちに
少しずつ、自分の答えが出てきたところで
親父が亡くなった。
ますます、わからなくなってくる。
親父が亡くなる。
葬式をする。
墓を買う。
墓を買うために、檀家に入る。
檀家に入るということは、宗教に属する。
仏壇も買った。
毎日、カミさんが、水を替え、お茶を入れ、ご飯をよそう。
僕も、線香に火をつけ、手を合わせる。
家族で、月に1度くらい、お墓参りに出かける。
墓石を洗い、花を替え、手を合わせる。
答えを出し切っていないうちに
しっかりした答えが用意された、集団に属している。
申し訳ない気持ちを、住職に伝えたこともあった。
矛盾している。
矛盾というか、バラついている。
自分の考えと、行動が、ずれてしまっている。
いや、ずれてしまっているとすら言えず。
自分の考えが、しっかり出ていないのだから。
そのことが、気持ちが悪い。
気持ちが悪いのが続いているのもいやなので
自分なりの答えを出そうと思っている。
いずれにせよ、よく言われるような
簡単なことではないと思っている。
「死んだら無になる」とか
「死んだら生まれ変わる」とか
そういうシンプルなものでもないでしょう。
僕らが普段生きている上で把握している
物理現象とか、言葉、感覚で、簡単に説明できるものではないでしょう。
もし、そんな簡単に説明できるのだとしたら
それは、「この世界」の話しですよ。